人の悩みを聞く事を生業とする友人は、そう言い切る。
「だから他人に期待し過ぎるな。」とも。
それぐらい人と人とが互いに理解し合うのは難しい事なのだろう。
たとえば親子や兄弟、肉親同士であっても、
対話なくして理解し合い良好な関係は築けない。
ましてや他人同士だったら、尚更の事。
人と人とが理解し合い良好な関係を築く上で、
必要不可欠になるのが「対話する」事なのではないだろうか!?
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先日マスターとお会いした時、
うちの碧クジラをしげしげと眺めながら
「キレイになったね〜。愛情注いでいるからだね〜。」と言ってくれました。
碧クジラが来て半年、
確かに雨が降れば拭き取りマメに水洗いはしているものの、
コーティングは納車当初に自分で掛けただけで、既に効果が切れかかっており
増してや小傷を直したり、再塗装したりなんてしていない。
「それでも物は愛情を注ぐと、それに応えてくれる。
クルマではないけれど花に毎日「キレイだね。」と声を掛けながら毎日水やりすると、
一層キレイに咲くのだと聞いた事がある。(残念ながら検証した事はありませんが)
普段あまり意識せずにいますが、私たちは自身の身体とだって実は対話しています。
「眠い」とか「痛い」とか、身体が発するメッセージを私たちが受け取り、対処する。
それを考えると朝起きて真っ先に碧クジラや紅い鳥に「おはよう」と声をかけたり、
窓から眺める度に「お前たち、格好いいジャン!!」なんて独り言の効果なのかも
とさえ思えてきます。(独りの生活が長過ぎたのかもしれません(汗 )
きっとペットも然りなのでしょう。
人に限らず動植物や物とだって、対話する事がきっと大事なのです。
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改めて考えてみると、
写真を撮るということもまた、被写体と対話する事なのかもしれません。
人であれ動植物であれ、物であれ風景であれ、
自分が感動を覚えた被写体に、カメラを向けシャッターを押す。
それは被写体に対して「キレイだね!」「格好いいね!」「素敵だね!」なんて
間接的に言葉を投げかけている事に繋がっているに違いないと思えてきます。
そして被写体もまた、そんな撮影者の気持ちに応えてくれているのかもしれない。
カメラも対話のツールだった訳ですね。
そんなこんなで、何に対しても必要不可欠であり有用である「対話」。
いついかなる時にもこの「対話」を今まで以上に意識し大切にして、
生きてゆきたいと改めて思ったのでした。
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